コメントの書き方 写真アップロード・一覧 | 出典一覧| タグ一覧 ■峠の概略 雄国沼の北西にある峠。南にある金沢峠より早く、藩政時代から大正にかけてよく利用された。 万治年間にこの沼を築修し、西麓に240町歩の水田を設けようという計画があった。主導者は当時の大塩代官・平左衛門なる人物。代官とは言いながら知行一〇〇石の平左衛門の単独事業であったという。雄国沼に堤を設けて水量を三倍にする工事、小沼峠の真下に高さ五尺幅四尺・長さ一八〇間の地下洞門を穿削つ工事、そして坑門から平地(戸石平)へ水を引く一里八町の水路建設と3ステップで行なわれ、農民や藩の協力によって万治三年(一六六〇)に完成。七四戸の入植者によって新田開発が行なわれ、その四年後には年貢米を上納している。 しかし、藩から米や金を借り入れての工事であったうえ、当初の計画の5〓6倍の金がかかってしまった。工事中途には借り入れにからむ冤罪で職も知行も失い、家屋敷を売り払わなければならなかった。出典では「生地の大塩に身を隠したとも、さらに逃れて帰ることがなかったとも伝えられている」とあるが、「東北の街道」では代官所へ出頭の途次に切腹したという話を載せている。いずれにせよ村びとは平左衛門に厚く