コメントの書き方 写真アップロード・一覧 | 出典一覧| タグ一覧 ■峠の概略 長沼町と郡山市湖南町との境にある国道294号の峠。トンネル上の舗装路旧国道。 若松からこの峠を越えて白河に至る道は、会津側からは「東通り」「茨城街道」と呼ばれた。佐渡の金も越え、湖南地方では「越後街道」という呼ぶこともある。言い伝えでは宝亀十一年(780)征東大使藤原小黒麿がこの峠を越えて反乱軍を征伐したという。その頃から杣道があったが、道として整備されたのは天文十五年(1546)。芦名盛氏がその頃通じていた板橋銅山道を拡張し、さらに天正十八年(1580)豊臣秀吉の会津入りの際に使われている。 街道は江戸時代の加藤嘉明の入部と同時に整備が行なわれた。寛文七年(1667)には保科正之によって一里三十六町制が敷かれ、のち幕命によって一里塚が築かれている。出典では「いま道の両側に残っているもの」として八田野・穴切・黒森峠・三代とこの峠南側にあるものの5つを挙げている。 元禄元年(1688)には領外の勢至堂村にあった口留番所を領内の三代村に移し、さらに中腹の唐沢に出番所を置いた。このため会津側では天保以降も唐沢峠、御代峠が正式名であったようだ。 (「会津の峠」) ■写真 [p_1980_000](2002.8.) 西側峠道に残る一里塚 [p_1980_002](2002.8.) 峠。アブが多かった・・・。 [p_1980_001][p_1980_003](2002.8.) 2002年夏は東側旧道が土砂崩れで通行止め。