コメントの書き方 写真アップロード・一覧 | 出典一覧| タグ一覧 ■峠の概要 秩父事件に関心を持つ出典の著者(布川欣一)はたびたびこの峠の旧街道を越えている。以下、「日本百名峠」より秩父事件のあらまし。 明治十七年十一月一日、埼玉県秩父山塊の渓谷の村々から、養蚕農民を主力とする秩父困民党が、年余に及ぶ準備を経て蜂起した。国会開設・自由民権を謳う板垣退助の自由党解党の三日後のことである。下吉田村(現、秩父郡吉田町下吉田)椋神社に集結、組織と厳しい軍律を整えた野良着の軍隊(総理・田代栄助、副総理・加藤織平、参謀長・菊地貫平、会計長・井上伝蔵)は、万余にふくらんで郡都・大宮郷(現、秩父市)を「無政の郷」と化し、繰り出した帝国陸軍との銃撃に勝利さえ収める。四日の本陣解体後、大野苗吉らの一隊は金屋(埼玉県児玉町)で激戦を展開して敗れるが、菊地貫平、坂本宗作らの一隊は屋久峠から群馬県神流川の渓谷へ、さらに十石峠を越えて長野県佐久平へ進出し、各地の農民をその隊伍に加える。そして九日、八ヶ岳山麓における高崎鎮台との中激戦で壊滅する。 秩父困民党が武装蜂起にまで訴えて掲げた要求は、高利貸への負債十ヵ年 [|http://nagajis.dyndns.org/Bunsuirei/text_d/knt/jikkoku.html]