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寛永十年(1633)に雲石街道(脇街道)として広島藩が指定。広島方面から根の谷川沿いに登り、峠の手前で一気に登りあげる峠道は難所として知られた。新道建設は明治十七年(1884)から始まっているが、明治十九年に峠前後の測量と工事に着手。二回三回と工事が進められ、二十二年に四回目の工事に着手し、翌年に高低差66mを37のカーブで登り上げる道が完成している。二十六年に県道昇格、引き続いて敷石工事が行なわれ、明治三十五年に完了。約一キロにわたる敷石の道は、当時、神奈川の箱根峠とここだけだったという。
明治から大正にかけては馬車や荷車の往来で賑わい、米や炭といった生活必需品がこの峠を越えた。大正四年(1915)に芸備鉄道が広島と三次を結び、自動車交通が盛んになるにしたがって峠は廃れていく。昭和八年にこの峠を古里へ向かった歌人・中村憲吉は次のような歌を残している。
「われ久に通らざりけり旧県道 峠の宿はすたれけるかも」
昭和15年から三ヵ年かけて峠区間が改修され、現54283854446255