|
出典によれば文化六年(1809)に道がつけられ馬を通したという記録があるが、それきり見捨てられ、狩人が使うだけになっていたという。その後安政年間に松浦武四郎がこの峠を越えている。以下出典からの孫引用。
「是より沢伝い上るに、椴木森々とし、倒れたるを跨ぎ、横れるを潜り行くに、雪深く山険にし上れり。午頃に成るや、雪和らかに成、足踏込てはか取難し。エコレ(注:人の名)を先々立て、所々の大木の鉞目を認て上る(凡二里)山の嶺に出る茅野有、回顧するに心目瞭然として夜の明たる心地す。西の方雌岳(メアカン)つづきユウタニ岳とて一大岳を見初む。又五丁許過椴原に入り、雪路なる故雪猶凍れり、谷間に下る」また出典の著者(更科源蔵)は冬の夜にバスでこの峠を越えた思い出を記している。(「串田孫一編『峠』」)
・分水嶺辞典・釧北峠
・