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六甲山の開発は明治の初めに神戸を訪れた英国人貿易商らによって行なわれたが、彼らは山頂に別荘を建て、この杣谷峠をカゴに揺られて登ったという。山道にカゴとは意外なようだが、明治初年に整備されたこの道は大名の参勤交代道を想定して作られたものだった。
薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件の余波で、兵庫が開港される運びとなり、同様の事件が起こることを恐れた幕府は兵庫を通る西国街道とは別の参勤交代道を作ることを決定。住吉から北に分かれて篠原を経、杣谷峠を登って西へ、小部、白川から明石の大蔵谷に向かう「迂回路」である。慶応三年に完成し徳川道と命名されたものの、前後して明治維新となり、結局一度も利用されず終いであった。逆に1868年1月、神戸の市街でイギリス水兵を斬り付けた岡山藩士が自国に逃げ帰るのに使ったという皮肉な史実もある。
昭和4年にドライブウェイが開通、昭和13年の大水害による出水などで交通の道としての機能は失われた。(「兵庫の峠」)