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敏達天皇の頃に赤穂郡を領していた奏河勝が遊猟地としていた。その後、この地の国主が、鷹が多く集まるこの場所で鷹狩りをするようになって以来「鷹取峠」と名付けられたという。『赤穂海辺より海道昔は周世坂を越え百自堤もとは姫路海道と云。木津を経て周世坂に至る鷹取坂を越るは浅野家以後の事也」(播磨鑑)。山陽道の脇道としての位置付けであり、そが(杣)道程度のものであったのを浅野公が改修した。赤穂浪士討ち入りがあって赤穂の名が全国に知られるようになり、事件の直後は一時大変な賑わいだったという。 (「兵庫の峠」)