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幕末の頃、肥後の芦北の久木野村から久七という爺さんが移り住んできたからこの名前があるという伝説がある。なかなかの変わりもので、馬鹿の真似をしては道行く人を茶化して楽しんでいたといい、さらに大胆なことに、肥後と薩摩の境であるこの峠の境界を勝手に動かし、薩摩の領地を広げてしまったという。今の県境もそれを踏襲して、峠から600mほど離れた地点を通っている。
とはいえこれは、出典にもあるように「然るべき史実があって、それに久七爺さんというキャラクターが乗っかったもの」のようである。近くの国見山山頂にあった国境碑も、山頂から350mほど肥後領に入り込んだ位置にあるという。
ちなみにこの県境には県境碑が建てられているが、司馬遼太郎が「こういう大げさな碑を県境に鎮めてあるのは、おそらく日本中でここだけではないだろうか」と評したようなdecorativeなものである。(「九州の峠」)