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大島の名瀬から古仁屋へ抜ける幹線道路。名前の由来となった三太郎爺さんの三太郎茶屋があったが、大正4,5年に峠を迂回する県道ができて廃れた(その直後の三太郎茶屋に柳田國男は訪れている(「海南小記」))。川辺町出身の彼は明治三十年頃に峠付近の土地を買い、夫婦で茶屋を始めたという。手作りの菓子や茶を振舞うほか、近くを開墾して茶やシイタケ、島みかんやツゲなどの栽培もした。長身で白いひげをたくわえ、いつも羽織・袴で出迎えたという話が伝わっている。
昭和3年に死去、妻シゲも後を追うようにして同年に他界。2人の墓は峠からも見下ろせる海辺の集落に作られたが、昭和14年の津波で流されてしまった。「寄せる波とともに訪れ、また波とともに去って行った、なんとも不思議な、そして愛すべき人物であった」と出典では記している(「九州の峠」)。まことにその通りだと思う。
また出典では長田須磨著「奄美女性史」にこの峠の古名が須垂峠であったことを記しているとある。三太郎爺さんの存在+スタルという読みが地名を動かしたのであろう。