雑誌越え予土街道の峠。天明七年(1787)二月、藩の製紙業独占に憤った農民たちによる「池川一揆」の群衆も越えた。峠には太子堂があり、泉があって、これが名前の由来のよう。元治元年(1864)十一月、勤王の志に燃えて脱藩を企てた中島信行ら三人がこの峠を越えた。うち中島与市郎は足の腫れもののためにこの峠に残り、太子堂に籠って自害。その出来事を後世に残す碑もある。(以上「土佐の峠風土記」より)