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地形図には記載がなく、出典の著者が命名。他にも地蔵峠(明治十五年の銘のある地蔵様が峠にある)、国見峠(国見山の東の鞍部を越える)といった呼び名もあるようだ。
土佐藩の木材運搬は吉野川の川流しを主に利用していたが、洪水の時など下流の阿波藩に迷惑をかけるので、本山の″木能津″で流木を引き上げ、この峠を越して送ることもあったという。ただし手間がかかるため、あまり長くは続かなかったようだ。(こうした流し木は完全に集約されることはなかったようで、柳田國男の著述のどこかで吉野川流域の人々が河原に打ち上げられた流し木を拾い集めて利用している光景が記されてあったように記憶している)