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東の野根山街道とともに、参勤交代道として利用された道。峠の記載はなく、笹が峰の頂上付近を越えることから便宜的にこう呼ばれているようだ(出典では続く水無峠、笠取峠と合わせて「北山越え」として紹介されている)。土佐藩二代藩主・山内忠義は海路で大坂に出(寛永二十年(1643))、四代藩主豊昌は元禄元年(1688)に野根山街道を通っている。この後は野根山街道と北山越えとを併用したようだ。ちなみに元和元年(1615)に「武家諸法度」で参勤交代の制が定められ、文久二年(1862)に廃止されている。
さらに遡れば、この道は延暦十五年(796)に伊予から土佐に入る新しい官道として開かれたものではないかとされている。現在の峠には昭和56年に再建された国境碑があり、当時は幅30cm、高さ3mほどのものだったという説明板があると出典にある。「これを″棒木″と呼んでいた」というのは興味あることだ。峠北300mほどの所には杖立地蔵があり、土佐から越えてきた旅人が一息つき、不要となった杖を奉納したという。(以上出典より)