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阿蘇外輪山の縁にあるこの峠は、四方から道が伸びてきて合流している。豊後街道と呼ばれた東西をつなぐ道のほか、小国方面へ抜ける道の追分もここにあった。豊後街道には当時の石畳道が残り、熊本藩主細川氏の参勤交替道として利用されていた(主に下りでの利用が多かったようである。登りは豊前街道を利用)。
国造りにちなむ蹴裂伝説も残る。水を満々とたたえた巨大な湖であったのを、阿蘇開拓の祖である健磐龍命という神様が干して開墾しようと考えた。そこで今の峠のあたりを蹴り破ろうとしたが、峠が2つあったためにたやすく破れなかった。そこで改めて火口瀬の立野、現在の白川が流れ出る地点を蹴破ったのだという。(「九州の峠」)