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近世に入ってよく利用されるようになり、明治9年には筑摩県が改修工事に着手したが、長野県との合併によって中断。その後明治15年、大野県令の「七道開削事業」で新碓氷峠に続く第二の課題としてこの峠の改修をあげている。しかしこのルートの改修にかかる費用が膨大なものになると予想され、明治20年の見直しで保福寺峠と一本松峠をメインルートに、明け通し(現・青木峠)を支線とする案が提出され、結局明け通しの工事だけが認可された。
三才山峠ルートは昭和になってようやく着手される。昭和24年に県道、39年に主要地方道、さらに昭和45年、国道254号の指定を受ける。翌46年には国道142号・和田峠改修と並んで「県政発展五箇年計画」の主要事業に指定され、工事が始まった。昭和51年に延長2750mの三才山トンネルを含む中心区間が有料道路として完成、前後の区間も昭和54年12月までに供用開始された。(「峠の道路史」)