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江戸時代には「雲伯路」と称し、出雲、伯耆国など山陰側の国々と備後国をつなぐ脇街道の一つであった。『芸藩通志』に「雲伯路阿井越、三次より同郡吉田村まで里程凡二里廿七町」とし、途中に「藤兼村十三町ぼうじ坂、みのう坂あり」とこの峠が出ている(榜示山を越える故?)。防地(榜示)は封建時代の領主の所領や荘園時代の荘域など、ある一定の区画の境を示すためのもので、石や木、杭などでそれを示した。『芸藩通志』では「西河内村以下、三十村を飛田荘といふ」とあり、この境を示したものかとしている。あるいは中世の「入君保」(君田村の南半分)の四至を表した棒示の一つであったとする説もある。
明治三十年代に江戸時代の道が改修されて県道となった。この時南側はおおむね旧道に沿って改修し、当時の面影は消えたが、北側は旧道を離れて道がつけられている。戦後、昭和四〇年代に幅員も拡張され、舗装化された。(「ふるさとの峠と街道」)
各地にぼうじ峠があるが、この峠は地形図に記載されていない例。